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思い出トーク

今だから「笑って」話せること

皆様からの新たな話題の投稿や訂正や補足をお待ちしております。

千葉宣一教授

  • 写真は創立70周年記念誌(2011年10月)から引用

育種研OBのHP「師の回顧」から引用

当時、文学を担当していた千葉先生は実をいうと私どもの担任でもありました。丁度、畜大に赴任し、最初に担当したのが私ども悪ガキのクラスでした。先生の授業は高邁すぎて殆ど理解できず、また、話が飛びすぎて結局何を言いたいのか不明という授業でした。議論が伯仲する様子を表すことわざで口角に泡を飛ばすのがありますが、先生はその癖を地でいっておりました。同期の近藤君は先生が泡を飛ばし出すのに何分懸かるかを計測し、授業の暇つぶしと先生の熱中度合いのデータとして研究しておりました。彼のデータによりますと早いときで5分、少なくとも20分までには泡が飛び出したようでした。
先生が畜大に赴任してまもなく、我々に「世界の比較文学の中枢は帯広に移動した」と宣いました。それ程自己顕示欲が強く(当時はこの程度の自慢を吹聴する教授は驚くには当たらなかった)、これは真偽の程は定かでないのですが、「佐川君からの手紙」の佐川君を論文指導した(話したことか論文を見たことがある程度?)と言うようなことも誰かに聞いたたことがあります。残念ながら私とは最も相性が悪い教官の一人でした。

佐川一政 (さがわかずまさ ) 1949年兵庫出身。パリ・ソルボンヌ大学大学院卒業。専攻は川端康成。(ウィキペディアから引用)

  • 1981年パリ留学中に,オランダ人女子大生ルネ・ハルテベルトを殺害ののち食した「パリ猟奇事件」で世界を震撼させる。ラ・サンテ拘置所に拘留中に唐十郎と文通をはじめ,その記録をもとに唐が著した「佐川君からの手紙」は32万部の大ヒット,1982年度下期の芥川賞に。また,1983年に刊行された,佐川がラ・サンテ拘置所で綴った記録「霧の中」もベストセラーに。1984年,日本に強制送還。以後,「サンテ」「生きていてすみません」「蜃気楼」などの作品を著す。

佐藤泉君に抹殺された千葉先生

コンパでは当然ながら千葉先生が話題に上りました。小栗君か誰か(最近は記憶が・・・)が授業の最後の質問で「先生、この時間で結局何を言いたかったのですか?」というようなことを言って困惑させたことを話したと思います。その時、泉君が「そう言えば千葉先生は亡くなったよね!。確か大分前に新聞か何かで写真入りで載っていたと記憶している」というようなことを言ったので、私も「大学の先生が亡くなると新聞に写真入りで載ることがあるよね」などと適当な相槌を打っていました。その後このページを立ち上げる時に、一年生のクラスコンパの写真に、コメント「中央に着物姿の千葉先生(故人)は分かるのですが、他の多くは名前と顔一致しません」を書こうとして死亡確認していないことに気づき、泉君に電話で何時何処でその記事を見たのか問い合わせました。その返事は大分前以上の事は分かりませんでした。しかし、記念誌には名誉教授(亡くなった人は名誉教授から外れる)で写真入りで載っているので、少なくとも2011年までは存命の筈です。ネットで調べても死亡の記事は見つけることができず、畜大退官後は北海学園で教授をされていたことしか分かりませんでした。多分80歳を少し過ぎた程度で元気でいることと思います。どなたか知っている人は教えて下さい。(文責 鈴木)

橋爪徳三教授

「師の回顧」から

橋爪先生は家畜栄養学の教授で、その風貌と試験が厳しく一回で合格することが極めて難しいという特徴があった。まず、その風貌だが生まれつきか不明だが左側顔面の発育が不良で非対称であった。また、当時の男性としてはやせ形長身で、昔、育種の前にあったトイレに育種のチビ(光本教授)、管理のハゲ(鈴木[省]教授)、栄養のノッポ(橋爪教授)という有名な落書きがあったが、正にノッポであった。

授業の開始5分か10分前には教室に現れ、その日に行う講義の項目を板書することからはじまる。項目についての説明が終わるたびに消して、全部が消されたときに講義が終了するという極めて律儀な授業だった。また、講義は時間ギリギリまで計算尽くされたが如く行い、説明も少しかん高い声で冗談も言わずに淡々とするため、合格点をとることが難しい科目であること理解しつつも、ついつい睡眠学習になってしまった。試験が難しいといっても何回でも追試をしてくれるので、栄養のために留年したという話は聞いたことはない。すなわち、栄養学が理解できるまで、何度でも試験にチャレンジしなさいと言う方針のようだった。

専門は牛の代謝で、先生は畜産試験場から大学に移られれたその筋では日本を代表する研究者であった。畜大の定年63歳の少し前に、定年65歳の鹿児島大学に転出されたが、教えることや研究が大好きという感じ(学生を困らせてほくそ笑むタイプ?)であった。

  • 最近、学生による授業評価が実施されるようになり、家畜育種を筆頭に学生にとって難しい科目が評判が悪く、学生の評価が酷い点数が付く。そこで教官も学生に合わせてどんどん難しいことを回避する傾向が強くなっているように思われる。橋爪先生の如く信念のある教授が激減し、学生に迎合し口当たりが良いが殆ど栄養にならない受け狙いの授業をする教官が増えているように思われてならない。[鈴木の愚痴]
  • 新婚旅行で鹿児島の橋爪先生のお宅にお邪魔し、例の如く沢山飲んだ、当時はタバコを吸っていて、忘れた100円ライターを翌日バス停迄届けてくれました。『まあやってみるんだな』は現在までの行動指針としています。 [近藤知雄 2009-09-01 (火) 20:11:43]

鈴木省三教授

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オリエンテーション

 最初にお話をうかがったのは、新入生のオリエンテーションの時だった。 黒板に大きな字で「土 草 牛 乳」と書いて、酪農学科ではこれらを学ぶと説明された。牛に触ったこともなかった小生にとって、大変わかりやすい説明であった。
 今まで多くの人から教えを受けたけれど、鈴木教授ほど短時間で簡潔明瞭、印象深く説明された先生はいなかった。(口角泡を飛ばす千葉先生、見習ってよね。

ルーズバーン

 小生は3年になって鈴木教授の家畜管理学教室に所属したが、ここはとても学生の多い教室だった。しかし大半はコンパの時だけ顔を出す、半分幽霊のような学生であった。鈴木教授はこのようないいかげんな学生に対してもやさしく接していて、卒論などは共著としてとにかく卒業させ、社会に送り出していた。
 ゼミの日に小生一人が出席という時があって、「林君、寮に行って寝ている〇〇君らを起こしてきてくれないか」と鈴木教授に言われたことがある。イギリス仕込みのパイプから煙をだしながら、いたってのんびりと構えていたのを覚えている。
 教官が帰宅する時は部屋をロックするのが当たり前であるが、鈴木教授が帰宅する時にはいつもドアはあいたままだった。夜な夜な出没する学生達が、教授の椅子に座ったり、書棚にある「畜産の研究」を読んだりと、教授室ですき放題にやっていたのを思いだす。
 鈴木教授の口癖は、「うちの教室はルーズバーンだからね」だったが、この方針によって救われた学生は少なくなかったと思う。

めん山羊

 家畜管理学教室では、めん羊とヤギを飼っていた。春になると新3年生が教室にやってきて、ジンギスカンで歓迎コンパとなるのだが、その前に新出助教授指導のもと、恒例のめん羊毛刈り実習を行った。学生が大きな握りバサミでめん羊の毛を刈るので、当然皮膚までハサミが入り、あちこち出血。足を縛られためん羊がイテーイテーと鳴き叫ぶ。すると鈴木教授が一言、「病気で1頭死んだことにしましょうや」。このあとはテキパキと解体が始まり、コンパの食材となってしまった。
 ある日、鈴木教授から「校門に子ヤギ2頭の捨て子があってね、まだ小さいからミルクをやらなくてはならない。林君と中里(みどり)さん頼むよ。」と言われて、にわかに子ヤギの乳母になってしまった。それからは、朝晩粉ミルクをといて哺乳びんで子ヤギに哺乳。世話したかいあって、子ヤギは立派に成長した。しかし子ヤギを大学に捨てに来るなんて、今では全く考えられない。迷える学生を始めとして、迷える子ヤギまで広く受け入れる鈴木教授の懐の深さを示すできごとだった。

学生部長

 鈴木教授が学生部長をされていた時に、体育会役員との懇談会があった。小生は体育会の副会長をしていたのでその会合に出席し、碧雲寮の風呂事情を説明する機会を得た。夜7時過ぎはラグビー部等ほとんどの体育会系の学生が一斉に風呂に入るため、風呂のお湯が50cmくらいまでに減少してしまう。なんとか7時にお湯を入れてもらえないだろうかと話した。すると鈴木教授は「それは改善しましょう」と即答。後日、夜7時から風呂にお湯が出始めた。これはとてもありがたかった。
 学生部長は学生を管理するのが仕事だったと思うが、学生の大半を占める寮生のことを心配してくれた心暖まるエピソードである。(文責 林)

祐川金次郎教授

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育種HP「師の回顧」から

全く型破りな大学教授という印象であった。私どもが3年生の頃に酪農化学教室の初代の教授として、雪印の研究所の部長(先生が退官のときに自伝「ひとりの男」の記載では)課長から転身された。風貌はゴリラ、誠にゴツイ感じであった。当時の研究室は畜大唯一の女子学生の部屋であった生活科学教室から、乳製品を扱う教室に衣替えの最中であった。助教授(講師?)に有賀先生、助手が高橋セツ子先生がいた。また、事務にはこれも美人で有名な小倉さん(?)が居たので、3人の女性に1人の男という妙な教室構成であった・・・

先生が古希のときの文集から同期生の部分を抜粋

たまたま、妻が生活科学の最後の卒業生だったので手に入ったものです。 祐川先生は現在91歳でご健在の様子ですが、昨年当たりに(?)気の毒なことに、奥様と息子さんを相次いで亡くされ様です(平成25年5月23日、鈴木記)。

save0060.jpg save0062.jpg suke_4.jpg suke_5.jpg matoba.jpg

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